虫の目転校生の目

転校生・生きづらさ・半端人生の折り返し・ななめの関係

17歳の転機だったのか

17歳(高校2年、1981~82年 昭和56~57年)のころ

たのきんトリオ松田聖子千代の富士漫才ブームなめ猫、校内暴力、欽ドン 

人生の岐路をつきつけられた2つのことがあった。

一つは初めての、三者面談。担任との親子進路相談。進学校なのでどの学校を受験するかの問題。

今まで自分がどの進路に行くのか考えたことが無かった。親ともそういう話はしたことが無い。同級生とも進路の話をほとんどしたことがない。

中学生のとき、学校の先生に向いているのでは無いかと、バレー部の顧問から言われたことがあると母が言ったいた。学校はあまり好きでないし人の前で教えるのは緊張、不得意なので、教師はないなと思っていた。金八先生にはなれない。

母親は公務員がいいと思っている。父親からは何も言われたことはない。経済成長がまだ続いていたので、公務員は給料が低いので夢がない仕事と思った。父を見ても楽しくなさそうで転勤も多いし。

試験の点数と得意科目をみて、担任の駒井先生がこちらに提案するものだと思っていた。父親と母親とどちらと行ったか(両方?)覚えていない。

成績から、背伸びすれば東北大の理学部くらいかなと予想していた。

担任は、生きたい進路、学部学科が無い(決めていない)ことにびっくりしていた。

だから、それで面談時間を終えた。

勉強とは、いかに総合点をとってその延長に進路があると思っていた。やりたいことがあって勉強するという、当たり前の考えが無かった、

同級生が自分の進路を一応決めているらしいことに取り残された気がした。

年子の弟も大学進学するだろうから、早く進路の方向を決めなければならない。そういう話題がでない我が家はほかと変わっている?のか。でも両親に相談しても、公務員になれだけで、引き出しが無いだろう。と思った。

 

二つ目は、一年生2年生の校内実力テスト(国語数学英語)の合計点で弟の負けたことだ。

当時は点数上位者は廊下に張り出された。800人中上位100人。僕は60~70位で名前載ってまずまずだ。しかし弟は20位台だったので、ショックだった。

弟はガリ便タイプではないがクラスで一番か2番だと聞いていたので、ありえる結果と

想定はしていたが。弟に負けたことが恥ずかしかった。

それ以来半年くらい、勉強するのをやめてしまった。ひここもり概念が無かったので、登校拒否はせず、不良友達もいないので外で遊びまわることは無かった。

やはり成績は落ちてしまう。でも3年は受験が待っている。弟がいるので浪人はできない。就職するには、社会に出る自信がない。

いろいろ悩んだが、小6年のとき小型エッフェル塔を細い角材で造り賞をとったこと、

理系、選択枝の幅、などから工学部建築科を目指すことにする。自分の職業とすることに確信はまだない。